【最善を尽くすために】「それ見たことか」と言うのやめたい理由

自分を生きる




  

「それ見たことか」
という言葉があります。

真意は
「ざまあみろ」
です。

ざまあみろというのは
人の失敗を嘲笑う時に使う
感嘆詞です。

そこに嘲笑の意がなかったとしても
心のどこかで
「言った通りにしないからじゃん」
という相手を蔑む気持ちはあります。

蔑む気持ちなくしては発せられない言葉です。

「それ見たことか」
「ざまあみろ」
そう発した時には
相手を貶しているような
自分の醜い部分が出ていることを
省みて欲しいです。

「それ見たことか」と言うのやめたい理由

人の失敗を喜んでる感があるから

この言葉を発している時
少なからず蔑みの意が込められています。

これは
自分の主張を受け取ってくれなかった
相手への当てつけの言葉です。

ですから、
瞬間的にでも
見下したり、軽蔑したりする
そんな態度を取っていることになります。

自分の主張の正しさを前面に押し出して
それを受け取らなかった相手を蔑み
悦に浸るためだけの言葉です。

そう考えると
情けなく思えてきます。

無関心故の言葉だから

そうはいっても
親しい間柄の人に対しては
ゼロにはならないにしても
限りなく薄まった言葉で接します。

思いやりがあるからです。

一方で、トゲむき出して発せられる言葉もあります

それは、関心のない相手への言葉です。

関わるつもりはない相手がどうなろうと
知ったことないということです。

例えば、
危険区域に足を踏み入れて
事故死した人がいたとします

関心のない立場であれば
その人に対して
「それ見たことか」
という言葉が吐けます

もし、当事者が
自分の身内だった時
そんな言葉は出てこないはずです

距離が空いて無関心になった瞬間に
相手の”死”さえ
乱暴に扱えてしまうのです。

非常に寂しい気持ちになります。

「それ見たことか」を言わないための方法

「それ見たことか」
そう言った後には
「前からこうなることはわかっていた」
「だからこうしろと私は言った」
そんな言葉が続きます。

これらの言葉は
自分の正しさを主張するばかりで
相手への配慮は何もありません

言葉が直接届くのであれば
届くまで主張すれば、
その主張に熱意がこもります。

届けるつもりがないなら
“傍観する立場にいるんだ”
と、自分を納得させてください。

最後まで見届ける

そのまま進んだら
ミスすることがわかっているのであれば
何とかして止めるべきです。

それでも相手が頑なに
別の道を選ぶのであれば
そちらの選択肢で成功できるように
力を貸してあげるべきです。

結果が出るまで
そばで力を貸し続けていれば
それはすでに自分ごとですから
「それ見たことか」
何て言葉は出なくなります。

踏み込むことをやめる

最後まで付き添うことができないのであれば
距離を置くことが必要です。

外から、やんややんや騒いでも
雑音でしかないですから。

自分の声が届かないほどに
相手の熱量は違うのです

相手は覚悟して、
その行動を選んで突き進んでいるから
もはや自分がどうこう言える域を超えています

ですから、
相手の失敗は相手のもの

後からとやかく言う筋合いはない訳です

最後に

最近であれば、
オリンピックの結構
東京都の4度目の緊急事態宣言など
何か言いたくなるようなものが
いくつかあります。

僕の想いとしては、
東京オリンピックが終わっときに
「だから言ったじゃん、、、」
って言葉が聞こえない世界であってほしい
それに尽きます。

終わってからどうこう言うのではなくて、
やれることは今やるべきだと思うのです。

「どうこう言っても無駄だ」
と思うのなら、
終わってから言ってももちろん無駄な訳です。

だからこそ今やるべきことは
全員で、成功させることだと思います。

そのためにも
「それ見たことか。」
「だから言ったじゃん」
この考え方を矯正したいのです。

そうすれば、
自分が本当に必要だと思う行動だけを選んで
注力できると思います。

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